ロケットマン~エルトン・ジョンのすべて~

イギリスの大スター、エルトン・ジョンの半生を題材とした映画『ロケットマン』が23日から公開される。1991年クイーンのフレディ・マーキュリーの追悼コンサートにも出演していました。

エルトン・ジョン

イギリスのロックスター、1947年3月25日生まれの72歳。72歳に見えないくらい元気ですね。

1969年にソロ・デビュー、ソロデビューの前は、バンドマンとして演奏していたらしい。

1970年に「僕の歌は君の歌」をリリース、ヒットする

現在までに3億枚以上のレコードセールスを記録し、世界で最も成功した男性ソロ・アーティストの一人である。作曲は、彼自身によるものだが、作詞は、盟友バーニー・トーピンがてがけている。今回の映画『ロケットマン』のインタービューでもバーニーとの関係を特別な関係と発言している。

ロケットマン

アルコール、薬物依存、曲作りからマイノリティーに関することまでさらけだしたミュージカル映画。

ロケットマン 」は宇宙飛行をテーマに切なる想いを歌ったバラードで、エルトンのライブの定番の曲の一つでもある。2018年には40万回のデジタル・ダウンロードを記録し、イギリスでゴールド・ディスクに認定された。

幼少時代

エルトン・ジョンといえばピアノで歌う姿が有名で、4歳のころから始めたとされる。父親はイギリス空軍の大尉だったため家を空けることが多く、母親や他の親類によって育てられることが多かった。

耳で聴いたメロディーをすぐ再現して演奏することができたそう。ある時期から父親が家に戻るようになり、彼の世界は変わってしまったそう。私生活に軍隊式のしきたりをとりいれ、徹底的に家のことを管理するようになってしまったんだとか。

エルトンと母親は父親が家に帰ってくることにビクビクして過ごすようになり、常に父親を恐れていたそう。空軍のバンドでトランペット奏者として演奏していた父親譲りの音楽的才能が開花していく。父親はフランク・シナトラのアルバムの楽譜をプレゼントすることもあったそうだ。

1958年11歳になったエルトンは、奨学金を受けてロンドンにある名門の音楽養成学校でピアノを学ぶようになる。このころからもう才能はあったんですね。バッハやショパンの演奏していたエルトンは、エルビス・プレスリーやビル・ヘンリー、ジェリー・リー・ルイスの曲も演奏するようになる。

音楽養成学校では音楽理論の基礎や技術を学び、その後の作曲において曲想やフレーズに苦しむこともなく、凄まじいスピードで作曲できることができたそう。

エルトンが15歳の時に両親が離婚し、ショックだったものの家庭内で独裁者がいなくなってリラックスできるようになったのも事実だそう。15歳にもかかわらず夜にホテルのラウンジでピアノの演奏をし始めた。トレードマークのメガネは、憧れのバディー・ホリーの尊敬をこめて伊達メガネをし始めたのがきっかけで、実際にどんどん視力が落ちていったようです。

結婚・離婚

1984年にドイツ人の女性と結婚。(70年代にはバイセクシャルとカミングアウトしていた)4年後に離婚、ゲイであるほうが自分らしくいられると離婚後に明かしている。

映画『ロケットマン』では、初体験がマネージャージョン・レイドとなっているのでこの時代当たりのことだったんですかね??

いい夫になりたかったが自分を偽っていたことに前妻を悲しませ罪悪感と後悔をもたらしたことにより、自分自身やパートナーに対して正直になる勇気と自覚を十分に持たないと誰かから愛されるに値するとのちに発言している。

自分自身のままで一緒にいられるパートナーというのは、失敗があってみつけられるものなのか、私も一度後悔しているのでこの言葉が重く良くわかる気がします。

アルコール・薬物依存症

1969年のデビューしてからコンスタントに曲をヒットさせ、1970年代に人気の全盛期を迎える。この時期に数々の快挙を成し遂げ、活動休止期間を経て、バーニーとの決別後不遇の時期を過ごした。そんな中でも初のグラミー賞を受賞している。ちなみにグラミー賞は5回受賞、ノミネートは34回にもおよぶ。

1980年に作詞をこれまでゲイリー・オズボーン、トム・ロビンソンにしていたのが、バーニーとのコンビ復活し、アルバムをだす。

1980年代後半から、喉の不調に苦しみ、アルコール・薬物依存症に苦しみながらも音楽活動を続けチャリティーにも取り組んでいた。

更生施設への入居

1990年、1980年代後半から精神不安定な状態が続いたなかでのアルコ―ル・薬物依存症、過食症の治療のために更生施設へ入居する。この後カムバックし、アルバム「ザ・ワン」を発売し、エイズで多くの友人知人を亡くした彼は、1992年以降「エルトン・ジョン・エイズ基金」に寄付するようになる。1991年フレディ・マーキュリーがエイズで亡くなったのもこの時期ですね。

カムバック後の活躍

映画『ライオン・キング』のサントラを手掛け、1997年事故死したダイアナ妃に捧げた曲「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」がシングル史上最大のヒットとなった。長年の功績をたたえポピュラー音楽の音楽家として3人目となるナイトに叙勲された。

ナイトはイギリスの叙勲制度において王室より叙任されるものが有名。ミュージシャンでは、ミック・ジャガー、トム・ジョーンズ、ロッド・スチュアートなどが叙任している。

多くのアーティストとデュエットしたアルバムの制作や今日まで精力的に活動している。

最近では、マドンナやジョージ・マイケルなどへの批判や政治的発言などが目立つようになる。

2005年に長年のパートナーであるデヴィット・ファーニッシュとシビィル・パートナーシップ法に基づき、契約を結び、2014年イギリスで同性婚の合法化がされると、正式に結婚した。二人には、代理母出産した子の親となり、そのうちの一人の後見人に「レディー・ガガ」がなっている。

交友関係

ジョン・レノンはじめ数々のアーティストと親交のあるエルトン・ジョン。同じ「ピアノマン」と称されるビリー・ジョエルとは一緒にツアーを行ったりしている。

サッカーファンでもあり、デビット・ベッカムとも親交があり、クラブチームを保有していたこともある。

コンプレックスと奇抜な衣装

自分の容姿が好きじゃなかったり、印象的中メガネをつけることでパフォーマーとして邪魔になる引っ込み思案を隠すことが目的だったようです。特に70年代の衣装がド派手だったようで、70年代は、音楽、ファッション、映画でいままでにないくらい創造性が爆発した時代だったそう。

現代と違って色んな事ができた時代だったんですね。ピアノにLEDをつけ、尊敬するアーティストの名前をつけたり、サービス精神が旺盛で観客を楽しませようと様々な工夫をしたり、着ぐるみをきたり、ゴリラ踊りをしたり。

また、薄毛になっていったのも気にしていたようで、カツラをかぶったりもしていたそう。1990年代に植毛に成功し、視力矯正手術も成功し、今ではギャグとして披露している。ふっきれたのかな~!?

まとめ

最初、聞いたときに衝撃をうけた「僕の歌は君の歌」を歌っているエルトン・ジョン。個性的であり、これだけの名声を受けているからこそ溺れる薬物やアルコール、アーティストの間では普通にあったのか定かではないけれど、才能ある人たちがドラッグなどに溺れ亡くなっていったりするのは、悲しいしもったいない。

手をだしてはいけないのは前提なんだけど、エルトン・ジョンは、治療をしカムバックしてこれたけど、そうできなかった人も多いはず、道が逸れても戻ってこれる見本となり勇気をあたえてほしい。

誰しも弱い部分がある、こんな有名人にも後ろめたい思いがる。私も生きていていいのかな~と少し思う、映画が楽しみだ!!!

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